現代ニヒリズムの分析と克服(ヨシロー)
夜中ってテンションがおkしくなるねぇ~。4時間かけてこんなことしてしまった。でも後悔はしていない!
<現代ニヒリズムの分析とその克服~「エヴァ」から見たニヒリズム~>
0、はじめに 現代に生きる我々はニーチェ以後の「神が死んだ」世界において絶対的存在者を失った状態にある。その世界、すなわち、今日我々は生きる目的など与えられず、ただ毎日を消費して「目的」なくひたすら「手段」しているのであり、人生を「自己目的化」しているといえる。(これを「自己目的化」と呼ぶことはそもそも「目的」の有無が大問題となっているため、不適切であろうが。)「何のために生きているのかわからない」・「どうせ何をしても『世界』は変わらない」・「あと一万年したら(宇宙的時間に立てばほんの一瞬)地球もなくなり、よって今現在人類が行っていることは全て無意味である」等々。これらのニヒリストを喚起するには、もはや「神話」では不十分となってしまった。以下で少々現代人が陥っているニヒリズムに関して、その根本原因を探るために歴史をさかのぼって考察をする。さらにその後、具体的な分析として、第3章で現代ニヒリズムを的確についている「新世紀エヴァンゲリオン」(以下「エヴァ」とする)を題材として考察を深める。
1、近代合理精神 17世紀、フランスでデカルトが一世を風靡した。デカルトはそれまでの「中世神学=スコラ哲学」からの脱却を図った。具体的には、<神>の力に頼らず、人間の「理性」によって探究を深めていったのである。デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我考える、故に我あり)」という「方法的懐疑」の結果導き出されたテーゼは有名である。デカルトは「コギト(考える私)」によって事物を合理的に考えていったのである。いわゆる近代合理精神の誕生である。
この後、近代合理精神は18世紀にイギリスで起こった産業革命とマッチし、その後産業革命を迎えた国々においても大いに広まる。自然には神々が宿っているなどというもは非合理的で馬鹿げている。実際私は今まで一度も「霊」だの「神」などというものを見たことがない。近代合理精神に冒された人々はそう考えて、事物をとことん合理化していく。例えば、工場内手工業における分業制度などはそのわかりやすい例だ。分業制度が整ってから、同じ製品でも効率が圧倒的に良い。あるひとつの製品は、分業体制のときとそれ以前のときでは、4,800倍もの作業効率の開きがある。そのように、近代合理精神はとどまるところを知らず、どんどん広がっていき、現代人にとっては血肉となっているものである。
しかし、事物を合理的に考える方法は、特に現代においては顕著にその矛盾を現している。近代以前、人間は地域の差異はあれ、様々な非合理的な存在を信じてきた。西洋では<神>。東洋では<八百万の神>などである。これらは人間が合理的に認識することは不可能である(むしろこれらの概念の定義こそが「認識不可能なもの」としてもかまわない)。これらは人々の「認識対象」ではなく、「信仰対象」だったのである。まさに「信じる者は救われる」ということである。しかし、ここまで見てきて気づいているだろうが、この「信仰」の発想は近代合理精神と相容れない。近代合理精神は実際にこの世界で起こったものから因果律を立てて法則性を見出す。
(D・ヒュームが因果律を否定するのはまさにこの経験というところにスポットを当てているからである。ヒュームが否定したのは、近代科学の法則性発見のプロセス―「経験」⇒「仮説」⇒「実験」⇒「法則性」―である。つまり、近代科学は「経験」においてしか始まらず、それはどこまでいっても「法則性」ではなく「蓋然性」であるとヒュームは言うのである。)
いわば合理的「認識」絶対主義とでもいうべきスタンスを取っている。逆に言えば「合理的に認識されないものは扱わない」というスタンスである。ここで「信仰」は度外視されざるをえない。「信仰」はその本質上非合理的である。従って近代以降の合理主義精神ももとでは<神>は解体され、19世紀においてついにニーチェによって「<神>の死」が宣告されたのである。このようにして近代以降、人々は非合理を捨て、合理を求めつづけるようになる。
2、脱近代合理精神 以上の近代合理精神のことを考察したうえで、ユングという心理学者を紹介したい。 ユングはフロイトと同時代に活躍した心理学者で、無意識というものを強く主張していた。ユングは以下のように人間本性を考察する。人間とは意識的・合理的なだけに収まるような存在ではなく、無意識的・非合理的なものをも必要とするものである。これは私たち現代人は必ず共感できるテーゼである。これは社会的に認められている人々が物質的(合理的)には豊かであっても、精神的(非合理的)には貧しいということが往々にしてある。いくら金があったとしても、朝起きてから夜寝るまで、ひたすらに労働に従事し、趣味などをやる暇もなく、ただ賢明に毎日を消費するだけのような生活を強いられるとしたら、それを最善のものとみなすものはいないだろう。貨幣はあくまで「使う」ことによって意味を得るものである。(マルクスが言うように、現代では貨幣の意義は倒錯して「貯める」ことに重きが置かれている場合が多いが。)その貨幣を使う時間すらないような生活はそもそも労働の目的からして自己矛盾している。先日、ある会社の社長が自殺したというニュースを見た。その会社は上場している一流企業であり、社長は社会的には超一流と認められている人物であった。この事件も、物質的豊かさではない、現代人が忘れ去ってしまった精神的豊かさの重要さを我々に教えてくれるのではないか。
さて、ここまでデカルトからユングまでの考察を通じて、現代人がなぜニヒリストとなってしまうかを見てきた。一言で言えばそれは近代合理精神の弊害である。近代合理精神を徹底させすぎてしまったがために、そもそも(恋愛などは顕著であるが)不合理な人間にガタがきているのである。そのことを次ではさらに具体的な事例を分析しつつ考察を深めていきたい。
3、「エヴァ」の示すニヒリズム克服 もしここまで読んでくれた方がいたらおりがとうととりあえず言いたい(まぁいないだろうが・・・自己満乙)。さてここからが本番! 「エヴァ」は主要登場人物として碇シンジ、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーの三人がいる。以下その三人の属性と関係性を考察し、「エヴァ」のテーゼを導き出したい。
まず、碇シンジについて考察する。彼は大変あらゆる事物に対してペシミックな考えをもっており、態度も一貫してシニカルでニヒルである。その人物像は現代社会におけるニヒリストをそのまま表している。そのニヒリストの本質はいままでみてきたとおりである。つまり、絶対的近代合理精神の持ち主ということである。彼が主人公として「エヴァ」の作中に登場してうることは、「この作品はあなた(現代人=ニヒリスト)の目線から始めますよ」ということを示している。我々は「エヴァ」を見るとき、その精神ゆえに主人公と共感し、「エヴァ」の世界に没頭しうるのである。
つぎに綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーについて考察する。このふたりは作中で対照的に描き出されている。レイは水色の短髪で無口であり、一方アスカは赤髪の挑発で活発である。先に結論を言うと、レイは非合理的な前近代的なものを暗示しており、アスカは合理的な近代的なものを暗示している。それは以下の場面で象徴的に示される。レイが自分たちがなぜ「使途」と呼ばれるなぞの生命体と戦うのかと疑問に思う。その時アスカは「目の前の敵は全て倒す!それだけ。」という。この言葉にはアスカが近代的な「病者」と同じ病にかかっていることを示す。それは何というに、アスカは目の前に与えられた作業をただタンタンとこなしていくだけである。これこそ近代社会が国民化委教育によって人間を画一化した試みの成功例である。自分の作業に何の疑問ももたず、ただタンタンと毎日を消化していく。
(アスカは活発な少女であり、一見そのような感じは受けない。しかし、その実キルケゴールが「絶望哲学」で言うように、俗物的な満足は本当の満足ではない。肉体的な欲求は精神的な欲求に比べれば劣る。肉体的欲求におぼれるものこそ「絶望」しているものなのである。)
それとは逆にレイは非合理的・前近代的なものとして描かれる。彼女は月と一緒に映される場面が印象深くある(レイのバックにありえないほど大きな月がある場面がある)。「月」は英語でmoonであり、その形容詞はlunarである。これはlunatic(「狂気」の形容詞)と酷似しており、西洋(ヴィクトリア朝など)では月が「理性」とわけ隔てられた「狂気」として実際扱われていた。さらに、レイは「霊」からきていると推測でき、これも前近代的な非合理なものである。最後にひとつこのふたりに付け加えるとしたならば、結婚観についてである。レイは随所に母性的(前近代的)な面を見せており、逆にアスカは「子供なんかいらない」とかたくなに主張している(生理への嫌悪など)。以上見てきたのはレイとアスカの属性およびその関係性(対照性)であった。
つぎには、ついに主要人物三人を交えての考察に移る。ここではシンジとレイ/アスカの関係性を見る。主人公のシンジ(我々)は作中のふたりの少女に魅かれる。しかし、その魅かれ方がまた対照的なのである。シンジはレイに対して精神的に魅かれていく。彼女との会話を彼は楽しみ、彼女の方もやがて彼に魅かれていくようになる。それと対照に、シンジはアスカに対しては肉体的に魅かれる。作中でも印象的に描かれるシーンであるが、彼が彼女で自慰行為をしていたことは、アスカは精神的ではなく、肉体的に魅かれていたといえるだろう。これが「エヴァ」の作中の基本的な構図である。まさに「エヴァ」は合理―非合理を問題意識としてもっていたといえよう。
4、「エヴァ」における現代ニヒリズムの克服 さいごに「エヴァ」において最後に示されるメッセージを読み説いて、そこから現代ニヒリズムを克服する手掛かりを示す。
「エヴァ」はラストにおいて、レイは超自然的存在(≒<神>)となり、主人公はアスカと結ばれる。このラストを聞いただけではよくわからないと思うので、特にアスカに焦点を当てて、なぜラストにアスカがシンジと結ばれたのか考察する。
ラストにアスカがシンジと結ばれるようになるまでに、近代合理精神のオマージュであるアスカに変化が訪れた。そこを注目する。作中のラストにおいて、アスカは近代合理精神から脱却をはじめたのである。これはアスカが母性を自覚する場面において示される。アスカはラストにおいて紆余曲折あって(疲れたので説明省く)母性を理解するに至る。先にみたように母性とは前近代的なものである。アスカは作中、物語が進むにつれて、廃人と化してしまう。その理由は自分の能力の相対的低下である。アスカは自分にしかできない「能力」(エヴァを操縦すること)をアイデンティティとしていた。しかし、物語が進むにつれ、シンジが「能力」を上げ、ついにはアスカを超えてしまう。「能力」によってアイデンティティを保っていたアスカは発狂し、自分の存在意義を肯定できなくなってしまう。そして、ラストのシーンに至るのである。ラストにおいてアスカは「能力」による「自己承認」ではなく、母性的な(母親が無条件に子を愛するような)「自己承認」を得るのである。そのことによりアスカは人生を肯定することができるようになり、廃人から復活したのである。
以上のように「エヴァ」は1と2で考察したように、近代合理精神へのアンチテーゼとして投げかけられている。
5、おわりに 最後まで読む読んだ人は(いないとは思うが)相当な暇人である。まぁそれはおいといて。 ここに示されている3と4の「エヴァ」は<早瀬から見た>「エヴァ」であり、100パーセント完璧とは言い切れない。しかし、私がいいたかったことは1と2の考察で示したように、「現代=ニヒリズム=近代合理精神≠非合理」であり、今こそ非合理を顧みようということである。3と4はその実例なので蛇足と捉えられるかもしれない。しかし、思想は思想だけでは生きていけない。思想はその時代の各人の共感を得て初めて影響力をもつ。今回私が3と4を設けたのも、その思想の理解ではなく、その先の共感にまでたどりつきたかったからである。しかし、これで現代のニヒリズムが完璧に解決するなど私は毛頭思っていない。むしろ、ここを出発点として、今後現代ニヒリズムの考察を深めていきたい。
2009年6月12日0:41 大成寮より 早瀬義朗
- 投稿者
- ヨシロー
- 投稿日
- 2009-06-12 (金)
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